あまんちゅ物語

2021/12/20 からはじめてみます

生と死と繋がり

いつかのお通夜の時、友人の親を前にして、友人が言っていた言葉を鮮明に思い出す。

人の死は悲しいものではあるかもしれないが、お通夜は人と人を巡り合わせる機会であると。

 

いまだにふとこの巡り合わせるという言葉を実感する機会が多い。

結婚式もそうだ。

この年齢になると結婚式に参加する回数も右肩上がりに増えてきている。

そんな時、久々に顔を見る人も多いのではないか?

結婚式は結婚する2人もそうだが、それ以上に懐かしい人と会い、新しい人と会う機会に繋がっているのだと感じる。

 

先月、友人と七輪を囲んだ際に、こんなことを言っていた。

「良い話と悪い話がある。どちらから聞きたい?」

私はもちろん。悪い話を選択。悪い話は、友人の母の死であった。

私は直接お会いしたことはないが、とってもユーモアある人だったと周りから聞いていた。

悪い話ではあったのだが、当事者じゃないこともあるのか、そして周りでの死も近い年齢になったこともあるのか、さほど驚かなかった。

良い話は、結婚するとのことだった。

結婚。素敵だ。相手の方も面識がありとてもハッピーな気持ちと共に

そこにも生と死、終わりと始まりを実感した。

 

そして先日、その友人から突然連絡があった。

それはグループチャットでの話。

七輪を囲んだメンバーがいるグループチャットで、

「今地元にいる人はいるか?」とのことだ。

平日の昼間ということもあり、私は仕事で地元を離れていた。

最初は普通に地元に帰ってきているからご飯でも行きたいとのかと思ったが、

内容はもっと深刻なものだった。

 

「親父が連絡がつかない」とのことだった。

母が他界したばかりの親父が連絡つかないとなると想像は悪い方向に考えてしまう。

すぐに地元で動ける友人を探したが見つからず、身内に連絡し、家に突撃してもらった。万が一も考えつつ、連絡を待った。

 

 

 

親から連絡が来た。

「チャイムを押したら出てきたわよ」

とのこと。

私から電話をし、友人の親父と電話。

懐かしい声ととっても安心している私がいた。

すぐに友人も連絡し、平和をオンラインで分かち合った。

何より安心したのは、友人であることは間違い。

何もなくて何もないことに価値を感じる瞬間でもあった。

 

昔の日本は近隣の人や地元で繋がりがあったというのはよくある話だ。

お互いの家を行き来したり、遊びに行ったりと。最近は聞かない。

ただ、何かあった時頼れる人や繋がりがあることはとても大事だと。

助け合える人がいるって大事なことだと。とても感じる出来事であった。

 

そして、ただ生きているだけでいいのだとも感じた。

日常的に会わなくても、たまーに連絡を取る関係でも

ただ死なずに生きてくれることが周りの人にとって幸せであると。